序章 雪降る町の少年

 冬の空気は、針のようだ。肌を刺されたような気がして、キリクは肩を寄せながら空を見上げる。
 少し前まで青く澄み渡っていた空は、いつの間にか灰白色の雲に覆われていた。もうじき雪が降るだろう。キリクは慌てて駆け出した。
 ここはロアンナ。イルフォード領最南端の町。南というと暖かそうに聞こえるが、まったくそんなことはない。夏過ごしやすい代わりに、冬は曇りや雨、雪の日が多くて寒々しい。いっそ、シュトラーゼくらい雪に覆われる方が対策しやすくてよいのではないか、などとキリクは思う。しょせんはないものねだり、隣家の麦畑をうらやむ感覚に近いのだろうけれど。
 起伏に富んだ道を小走りで駆けていると、のどかな景色の先にいっとう大きな建物が見えてきた。少し膨らんだ三角錐の屋根と小さな塔。キリクが目指すロアンナ教会だ。彼が安堵と疲れの吐息をこぼしたとき、空から冷たいものが降ってきた。
 結局、キリクは教会に着くまでに、体中に白い物をつけることとなった。やれやれと全身を払っていると、教会の裏手から足音が聞こえてくる。
「おかえり、キリク。旧神殿の掃除は済んだか?」
 ひょっこり顔を出したのは、キリクとよく似た少年だった。同じ色の髪と瞳、少しキリクと違うのは、目もとが引き締まって見えるところだろうか。
「ただいま、兄ちゃん。済ませたけど……疲れたよ、もう」
 外衣コートの裾を払いながらキリクは声を尖らせる。兄のクランは、くすりと笑った後、弟を手招いた。
「お疲れ。あったかいミルクでも飲むか。おまえが好きな蜂蜜入りのやつ」
「やった。いいの?」
「父さんの許可は取ってる。しかめっ面の助祭様には内緒な」
「うん」
 瞳を輝かせたキリクは、兄の手を取って教会の裏口に向かった。
 帝国領内には、各地の教会や聖堂とは別に、古い神殿があちこちに残っている。今のラフェイリアス教が成立する前のものだ。そのため、多くは放っておかれているのだが、ロアンナ周辺の神殿だけは教会を取り仕切るセレスト家の人間が今も管理を続けている。次男のキリクは、昼間から神殿掃除に駆り出されていたのだった。
「はあ……父さんにしろ助祭様にしろ、なんでおれにばっかり仕事振るんだろ……」
「そりゃ、キリクが『お勉強』を嫌がるからじゃないか?」
「お勉強も嫌だけど、この時期の神殿掃除はもっとやだ。死人が出るよ、あの環境」
 教会の二階、その小さな一室。お勤め人のための休憩所であるその部屋で、キリクとクランは温めたミルクを飲んでいた。白い水面の中で、甘美な黄金色が渦を巻いている。
 キリクは、カップを両手で持ったまま椅子にもたれる。
「そこまでして教会仕事をやらせたいもん? 別におれがやんなくたっていいじゃん。兄ちゃんがいるし。兄ちゃんやる気だし」
「いやまあ、確かに俺はやる気だけどさ。ロアンナ教会は俺が継ぐとしても、キリクはキリクで何かしらやってほしいんだろ。教会関係の仕事って、神父だけじゃないし」
「えー、やだよ。おれには聖職者なんて向いてないって」
「向き不向きを判断するには早いと思うぞー。キリク少年」
 どんどん出てくるキリクの愚痴を、クランは笑顔で受け流す。普段は寡黙なキリクがここまで色々喋るのは、クランと二人きりのときだけだ。本人はそれに無自覚で、兄はそれに気づいていた。
 先にミルクを飲み干したキリクは「ごちそうさま」と言って立ち上がる。少し緊張のほぐれた少年を、クランが見上げた。
「ようし、キリク。片付けたら『あれ』の解読やるか」
 キリクは、思いがけない提案に榛色の目をみはった。
「え、手伝ってくれんの?」
「おう。この後は俺も暇だから」
 クランは悪戯っぽく笑って言う。キリクも釣られて口の端を持ち上げた。兄にお礼を言い残して、休憩所を出る。
 カップをしっかり洗ってから、急いで家に戻らなければ。気づけば彼は、そのことばかり考えていた。

『あれ』というのは、数か月前にキリクが教会の資料室で見つけたもののことだ。整理していた書物の隙間から、突然こぼれ落ちてきた。ハナズオウみたいな赤紫色をした石で、表面に文字が彫られている。宝石だろうか、とキリクはしばらくながめていたが、なんとなく長く触っていていいものではない気がして、そっと本の中に挟んでおいた。ただ――表面に刻まれていた文字のことがどうしても気になった。なので、文字だけを暗記して別の紙に書き留めて、空いた時間に解読しているのである。
「これは代名詞……要は『彼』だよな。今までの内容と文脈を考えると、これは助詞みたいなものだから……」
 近くの自宅に戻った兄弟は、小さな紙切れにかじりついていた。兄が呟いた内容を、弟がせっせと別の紙に書き起こす。
「『彼はもうひとつの目を生んだ』って感じか?」
 うなりながら呟くクラン。その姿を一瞥したキリクは、古紙の前で頬杖をついた。
「意味わかんないね」
「意味わかんねえな」
 わからない、という一点をわかりあった兄弟は、古い言語で書かれた文章をにらむ。キリクが一生懸命写し取ったそれは、ところどころが震えていたり、線が傾いたりしていた。
「前の文章と無理やりくっつけると『ひとつの目で庭のすべてを監視することはできなかった。彼はもうひとつの目を生んだ』か。ああ、ここにあるのは『だから』とか『それで』とか、そういう言葉かな?」
 前に読み解いた文章と、今読んだ文章の間にある記号。それを指さして、クランはひとり嬉しそうにうなずく。一方のキリクは、頭がこんがらがるのを感じて、机に突っ伏した。
「わかんない。言葉はわかるけど、中身がわかんない」
「そうだなあ」
 なんだろうこれ、と考えこむ兄を、キリクはじっと見上げる。頭の中で先ほどの文章を何度も繰り返す。そうしていると――なぜか、嫌と言うほど読まされた本が思い浮かんだ。
「なんか……神様みたいだな」
「ん?」
「監視するとか目を生むとか、やってることが神様っぽいなって」
 ほう、とクランが両目をみはる。それまでただの少年だった彼が、急に聖職者見習いの顔になった。
「ひょっとしてこれは、神話の中の一文か? いやでも、こんな文言は見たことがないな。もしかしたら、今の神話には残されていない、古い説話かもしれない……」
 低い兄の呟きを聞いて、キリクは顔をひきつらせる。もしかしたら自分は、とんでもないものを拾ってきたのではないか。そんな恐れが頭をもたげた。
「……父さんにばれたら怒られそう……」
「何を今さら」
 うずくまったキリクの隣で、クランが爽やかな笑声を立てる。
 自分たちが解読しているこの文章が、今まさに行われている神々の闘争の鍵を握っていることなど、少年たちは知る由もなかった。