帝都を取り巻く空気は、今日も冷たい色をしている。早朝には軒先に霜が降り、あるいは雨戸に氷の粒がびっしりついて、車をひく馬もいささか縮こまっているようだった。それでも、灰色の雲の隙間から時折やわらかい陽光が差し込む。そのぬくもりが、人々に春の気配をうっすらと感じさせるのだった。
都の喧騒からわずかに離れた路地の一角。常に静寂の中に佇む教会もまた、冬の中に身を置いている。建物のまわりにも礼拝の間にも人の姿はなく、静まり返っていた。薄暗い空間をひえびえとした風が吹き抜けるのは、季節だけのせいではない。――この日の教会はどこか、余人を寄せ付けない氷の衣をまとっているようだった。
礼拝の間からさらに踏み込んだ先にある資料室。そこに、わずかながら人々が集まっていた。火災防止と資料保存の観点から、この部屋に暖炉はない。が、人いきれと行燈の火のおかげで、部屋はほんのりと温まっていた。
足音と紙の音。そればかりが何度か響いたのち、ひっそりとしたささやきが、薪色の闇を揺らした。
「神父様、神話全集の第五版一巻、こちらにありました」
「ありがとうございます、カーターくん。……よかった、これで資料が揃いましたね」
書棚の森を行き来していたエドワーズ神父は、少年の呼びかけに足を止める。両手で分厚い本を持ち上げた彼にほほ笑みかけて、来た道を戻った。その腕の中には、少年が持ったよりやや薄い本が三冊ほど。麦粉をぱんぱんに詰めた袋ほどにも重いそれらを、神父は表面上涼しい顔で、そばの大机に運んだ。大机のまわりには、数人の学生が座っている。お行儀よく待っていた彼らは、重い音を立てて置かれた本の山を見て、顔を引きつらせた。
「え、えーと……本当に待っていていいんですか? あたしたちも何か手伝った方が……」
そのうちの一人、栗色の髪の少女が気まずそうに片手を挙げた。右耳の上でまとめられた髪が、動作に合わせてひょこっと揺れる。エドワーズは、やわらかくほほ笑んだ。
「この教会で『翼』のお二人に肉体労働はさせられませんよ。それに……みなさんお疲れでしょう?」
少女――ステラ・イルフォードは、神父の言葉に生返事を返した。隣の幼馴染と思わず顔を見合わせる。
「確かにお疲れだけど、それは神父さまのせい……」
「しっ」
二人の向かいで呟いたトニーの頭を、ナタリー・エンシアがひっぱたく。「お説教追加されたいの?」とささやいた少女に、猫目の少年は真剣みに欠ける謝罪を返した。
第一皇子アーサーから手紙を受け取って、数日が経った。王宮の地下に忍び込んだ日から数えると二週間弱だ。ようやく学院生活が落ち着いたステラたちは、次の行動に移った。『クレメンツ怪奇現象調査団』とカーターの七人で早朝からこの教会を訪ね、先日の一件を報告したのである。
大抵のことを笑顔で受け流すエドワーズ神父も、今回は受け流し切れなかったらしい。すべての報告を聞き終えるなり、学生たちを教会の奥へ招き、そこで淡々とお説教を開始した。セルフィラ神族の危険性を理解しながら、神父たちに一言の相談もなく大きな行動を起こしたこと。加えて軽率に――ステラたちとしては、軽率なつもりはなかったが――皇族に裏事情を明かし、彼らに協力したこと。その重大さと危険性。エドワーズ神父はそれらを、いつになく静かな口調で、よどみなく語り聞かせた。ミオンが顔面蒼白になり、ある程度お叱りに慣れているはずのトニーやナタリーまでもが音を上げたとき、ようやくそれは終わった。
エドワーズは、へとへとになっている学生たちに昼食を振る舞った後、いつもの笑顔で言ったのである。
「せっかくですから、『道』の話もしてしまいましょう」と。
カーター・ソフィーリヤが本を持って戻ってくると、エドワーズもあいた椅子に座った。それから、穏やかな口調で切り出す。
「ラフェイリアス教における神のための『道』とは、神々の領域とこの世界とをつなぐ、回路のようなものです。現在では『銀の選定』含め、ごく一部の儀式でしか使われることはありません」
ささやきが、生温かい空気を揺らした。間を置いた神父は、手元の本をぱらりとめくり、開いたページを学生たちに示す。
「神話において『道』にまつわる記述が最初に出るのが、ここですね。貧困にあえいでいた小さな村を救うため、村人の青年が女神に助言を請う、というお話です」
少年少女は顔を突き出し、そして一様にしかめた。肝心の文章が古い文字と文法で書かれていて、ほとんど読めなかったからだ。神父の解説で内容は理解できたものの、実際の文章が読めないのでは、神話中での『道』の扱いがわかりづらい。エドワーズはそれを見越していたらしく、ちらりとカーターに目配せした。未来の司祭様と目されている少年は、数秒凍りついたのち、ぎこちない咳ばらいをしてからページに視線を落とした。
「『青年は、信心深い友人とともに、村の北西の小屋にこもった。金銀の花と貴重な香辛料の香を用意し、天階山の木と大鷲の羽を使って杖を作り、女神を讃える文言を記した獣皮紙とランプを用意した。
満月の前日の夜明け前、青年の友人が香を焚き、ランプに火を灯し、小屋の中心に獣皮紙を置いた。青年は杖を持ち、獣皮紙のまわりを歩きながら祈った。すると、空が開き、小屋には神の魔力が満ちた。青年が七回目の祈りを口にしたとき、彼らは女神の声を聞いた』――ここから先は、青年と女神の具体的なやり取りが書かれています」
カーターが小さく息を吐く。学生たちのいくらかは感嘆の声を漏らし、いくらかは首をかしげていた。ステラはどちらかというと後者だ。彼女が必死に先ほどの文章を頭の中で砕いている間に、ジャック・レフェーブルが神学専攻の少年を見やる。
「これは……かなり古い儀式だよね?」
「はい。現在の神聖魔導術が確立される前の儀式ですね。今の『開道の儀』とも違います。由緒正しいやり方、とでも言いましょうか」
カーターは彼を見てうなずき、再び本に視線を落とす。その横顔を見つめて言葉を整理していたステラは、ふとあることに思い至った。エドワーズ神父を振り返る。
「声が聞こえる、だけなんですね。女神の姿が見えるとか、彼女が地上に降り立つとか、そういうことはない……?」
問いかけながら彼女が思い出していたのは、年明け早々に行った『金の選定』の報告会だった。そこに同席した神官ダニエル・フィンレイは、セルフィラ神族の目的が「女神セルフィラをこの世界に呼ぶこと」ではないかと推測した。そのために『道』を作ろうとしているとも。
「はい」と答えたエドワーズは、わずかに目を伏せる。考え込んでいるふうだった。
「先日、フィンレイ神官もおっしゃっていたことですが……本来『道』というのは、女神の意志と魔力をこの地に伝えるだけのものです。もっとも規模の大きい『開道の儀』を行う『銀の選定』ですら、ラフィア神そのものをお招きすることはできません。人間の力では、あれが限界なのです」
それを聞いていたレクシオとナタリーが眉を寄せる。『銀の選定』、その祈りを間近で見ていた二人だ。何か思うところがあるのだろう。
「けど、セルフィラ神族はそれ以上に強固な道を作って、『主神』を呼び出そうとしている……ってことですね」
「おそらくは」
レクシオの低い問いに、エドワーズも真剣なうなずきを返す。
「神たる彼らならば、可能なのでしょう。その方法を見つけ出せば、先回りして止められるかもしれない、と考えたのですが……」
ラフィアと同等の神を呼び出すための『道』が、人間の儀式と同じ方法で作られるとは考えにくい。ステラたちの視線は、自然とジャックの手もとに集まった。そこには、アーサー名義で送られてきた手紙がある。彼が王宮地下の冥府神殿で読み取った内容を見返して、トニーがため息をついた。
「これだけじゃあ、手がかりとしては弱いよなあ」
「いえ。何もないよりはかなりましですよ」
ほほ笑んだ神父は、先ほどとは別の、三冊の本を開く。
「ラフィア神がヒトに近い姿をとり、人々の前に姿を現した話は、いくつか記録されています。ただ、そのときに『道』が形成されたという記述は見当たりません」
そう語ったエドワーズは、学生たちに本を見せながら、その『話』を教えてくれる。代表的なのは、『神が初めて人前に現れた』ときのこと。そのほかにも、いくつか。それらの話をひと通り把握した七人は、思わずうなった。
「確かに、『道』の話は出てきませんね……」
おさげ髪を揺らした少女――ミオン・ゼーレが呟く。「いえ」と返したのは、隣にいたカーターだった。
「はっきり書かれていないだけで、どこかに『道』を作った話が隠れているかもしれません」
彼らは、しばらく三冊の本を交互に見つめた。それから――机に突っ伏したり、天を仰いだりする。
「これは……ないでしょ」
「さすがに……もう少し情報が欲しいですね……」
嘆息したナタリーに答えるように、カーターが頭を抱えてうめく。
しばらくの間、資料室には重苦しい空気が漂った。その中で、ふいに、レクシオが目を見開く。
「そうだ。もうひとつ、報告しなきゃいけないことが」
「おや。なんでしょう」
エドワーズが両目をしばたたく。少年少女も不思議そうに首をひねった。レクシオは「実は――」と言いながら、鞄のポケットから紙切れを引っ張り出す。
「同じ日に、別の人から不可解な伝言を受け取りました」
ステラは、あっ、と声をこぼした。レクシオが取り出したのは、武器屋のチャールズから預かった書付だ。
「別の方、と言いますと……」
「ヴィント・エルデ。俺の父です」
エドワーズが目をみはる。学生たちも息をのみ、トニーやナタリーなどは「はあっ!?」と驚きの声を上げていた。
「父が知り合いに、俺たちへの伝言を託したそうです。その内容が、これなんですけど……」
周囲の反応を歯牙にもかけず、レクシオは淡々と報告する。そして、紙切れを広げてエドワーズに差し出した。
「『帝都第一、セント・ヴィリア、リーリス、ディノ、ロアンナ。ここに眠る物を探せ』」
エドワーズは走り書きを読み上げる。一瞬後、顔をしかめた。
「これは……」
「最初のふたつ以外は、地名っすね」
トニーが猫目をいっぱいに開いて、身を乗り出す。ステラはそれを聞いて、瞬時に記憶を辿った。
ディノは、もちろんわかる。帝都に一番近い町のひとつで、神父殺人事件が起きた地のひとつだ。ロアンナもぎりぎりわかる――イルフォード家の領地の一部だからだ。唯一ぴんとこなかったリーリスについては、頼れる団長が答えをくれた。
「リーリスといえば、帝国東部の町だね。『水の乙女の隠れ家』とも呼ばれていたっけか。ロアンナは、確かラフェイリアス教会が美しいことで有名かな」
さらりと知識を披露したジャックに、エドワーズが唇を持ち上げてみせる。それから、こう付け足した。
「そうですね。教会の管理者・セレスト司祭の評判もよく、小さいながら活気づいている町です。ディノについては……説明するまでもないでしょうか」
神父の微笑に、ほんの一瞬、影が差す。ステラはそれを見逃さなかったが、さりとて言及もしなかった。代わりに、唇に親指をかけ、思考を音にする。
「で、セント・ヴィリアは多分、帝都にある大きな教会……」
「ってことは、ここに書かれてるのも全部、教会の名前?」
ナタリーが挙手しつつ呟く。エドワーズとカーターが同時にうなずいた。
「セント・ヴィリア教会はなんとなくわかりますけど……帝都第一、というのはどこでしょう……?」
ミオンが眉を下げた。か細い声に答えたのは、木漏れ日のような一言だった。
「ここですよ」
「……え?」
数人分の反問が、重なる。カーターを除く学生たちの視線を受けた神父は、丁寧に紙きれを畳んでレクシオに返した。それから、立ち上がってほほ笑む。
「この教会です。今は単に『帝都教会』と呼ばれていますが――正式名称は『ラフェイリアス教・帝都第一教会』なんですよ」
あっけらかんと告げられた事実に、ステラたちは言葉を失う。
乾いた空気を数度、吸って吐いたのち――
「うっそお!?」
――ここが教会の資料室であることも忘れて、叫んでしまった。