終章 神の祝い、人の祈り

 霙降る、天階山てんかいやまのふもと。白く染まった森に隠れるようにして、二人の人がいた。否、正しくは人の姿を取った神族だ。
 二柱の神は、粛々と自分たちの主神を招くための準備を進めていた。下準備も下準備だが、早く始めるに越したことはない。
 山を臨める場所に『基礎』をつくる。これまで手に入れた神録を正しい順に並べる。そこに生じた空白を見て、ローブをまとった青年――ギーメルは、やれやれ、と呟いた。
 そのとき。すぐ隣で瞑想していた大男――ヌンが身じろぎした。ギーメルの不満げな視線を受けても、大男はまるきり無視だ。立ち上がり、天を仰いで、しばし沈黙する。数秒後、彼の全身を覆う布の下から、声が流れ出た。
 ギーメルは純粋に驚いた。ヌンの声など、今まで一度も聞いたことがなかったのだ。
 低い、低い、地底奥深くのような声。それは旋律となって絶えず流れ続ける。最初呆気に取られていたギーメルは、しかしすぐ、仲間のやっていることに気づいた。
 神なりの弔い。死者の魂をしかるべき場所へ送り出すことだ。そして、セルフィラ神に与したヌンが自ら送り出す魂は、ただひとつだろう。
「あのガキ、死んだのか」
 ギーメルは呟く。口に出すつもりはなかったのだが、ぽろりとこぼれてしまった。かたわらのヌンには、その声は届いていないらしい。何かに取り憑かれたように歌い続けている。
 ギーメルはいびつな笑みの形に口をゆがめる。口出しはしない。冥府の神のたまおくりは、いつもこうなのだ。
 長く長く続いた歌が止んだ頃、白と緑の空間が揺らぐ。金銀の髪をなびかせて、少年が現れた。音もなく着地したレーシュは、天を見つめたままのヌンを一瞥した後、ギーメルに一礼した。
「お待たせしました、ギーメル」
「やあやあ、レーシュ。色々失敗したみたいだな?」
 ギーメルは皮肉をこめて言葉を返す。しかし少年神は露ほども動じず、にこりとほほ笑んだ。
「そうですね。少々、予定外のことが起きたのは事実です」
「いいのか? 神録が三つも『翼』どもに取られちまったんだろ」
「もちろん、すべての神録が手もとにあるのが理想的でしたが……在り処がわかっているだけでも、やりようはあります」
 宵の色の瞳が、愛おしそうに獣皮紙と金属板を見つめる。少しして、その視線をギーメルに移した。
「それに、ロアンナ教会に秘蔵されていた神録は、すでに何者かの干渉を受けていました。我々も『翼』も、簡単には内容を見られません」
「はい? 干渉?」
 ギーメルは素っ頓狂な声で聞き返す。レーシュの表情が変わらないのを確かめて、大仰にかぶりを振った。
「そりゃ困ったな。けど、誰が神録なんかに干渉したんだ?」
 レーシュはただ頭を傾けるだけだ。だが、目の奥には冷たい光が揺蕩っている。それに気づいて、さしものギーメルも眉を寄せた。
「まさか……魔女? あの腰抜け共が、こっちの考えを見透かして、邪魔してきたってのか?」
「さあ。何とも言えません。案外、人間の子供がうっかり鍵を開けてしまっただけかもしれませんしね。どちらにせよ看過できませんが」
 神録に悪戯ができる人間は、それだけ『ラフィア神に近い』存在だ。セルフィラ神族にとって、後々大きな災いとなりかねない。
「そちらについては、ダレットに調査をお願いしました」
「そういや、ダレットはこっちに来ないのか?」
「はい。人間の町でもう少しやるべきことがありますからね」
 目を細めたレーシュを見て、ギーメルは大体を察した。呆れの後に、得も言われぬ高揚感がやってくる。
「いいねえ。俺もそっちに混ざりたい」
「気持ちはわかりますが、許可しませんよ? こちらに戦闘員がいないと困りますので」
「よく言うよ。一柱でなんでもできるくせに」
 ギーメルがあえて刺々しく返すと、レーシュは軽く胸を反らした。
「そうですね、と言いたいところですが。この形をとっているときは、通常より機能が落ちますので、できることも減ってしまうのですよ。ギーメルも多少は感じているでしょう」
 ギーメルは、へっ、と吐き捨てて顔を背ける。自分こそが絶対正義だといわんばかりの物言いには腹が立つが、図星は図星、というところである。
「こっちの仕事が終わったら、好きに暴れさせてもらうからな?」
「それはどうぞ、ご随意に」
 レーシュもレーシュで、仲間の心情を見通しつつ、それ以上つつかない。単に興味がないのだ。するりと仲間たちの脇を通り抜けて、神録の前で何かを唱えはじめた。
 美しいが温度のない声を、ギーメルは聞き流す。少しして、隣を振り仰いだ。
「ヌン」
 いつもの体勢に戻っていたヌンが、わずかに頭を動かす。ギーメルはわざと荒っぽく、巨体をどついた。
「あとでロアンナ教会が見える場所に連れてってくれよ」
 ヌンはしばし沈黙した。その空隙にギーメルが飽きた頃、ようやくうなずく。よしよし、と呟いて、ギーメルは天を仰いだ。
「――あのガキは嫌いだけど、おまえと『戦士』への義理立てくらいはしてやる。感謝しろよな」
 もう声は届かない。わかっていながらも、戦神は不敵に笑う。
 そして、美しい声は、止んだ。

 帝国北西部。雄大な銀灰色の山並みを遠くに臨む道には、冷たくも清浄な空気が流れ、山岳地帯を住処とする動物たちが時折姿を見せる。
 いつもならば。
 今は、その道の上を黒い靄が漂い、同じ黒をまとった獣が跋扈している。獣たちの姿かたちは様々だが、いずれも両目が不気味に光っていた。どこから来たのかも定かでない彼らは、我が物顔で動き回り、時に草木をむしるように喰らい、時に現世の鳥獣を荒々しくむさぼった。そのたび、禍々しい力がまき散らされる。
 終末を再現したかのような一帯に、突如乾いた音が響き渡った。この大陸では現在、めったに聞くことのない音――銃声。それが、二度。
 崖を駆け上る鹿の一種を追いかけていた獣が、突如体を跳ねさせた。そのまま地面に落下する。周囲にいた獣たちも、苦悶の声を上げた。彼らは怒り狂って声の元を探す。そして、道の上に立っている人間に気づいた。
 異様な獣たちは一斉に、その人間へ襲いかかった。彼は少しも動じず、両手に収まる程度の銃を構える。黒髪の下からのぞく瞳が、黒茶から空色へ変化し、輝きを放った。
 二発、発砲。狼に似た獣たちの足から、黒いものが噴きあがった。怒りと痛みの叫びが響く。それを見つめた人間の青年は、冷たい表情のまま口を開いた。
「――リネ」
「りょうかーい」
 静かな呼びかけに、少女の声が応じた。
 黒い獣たちの、遥か上。曇天を背にして、少女が浮いている。青い髪を冬の風に遊ばせた少女は、「よっ」という軽い掛け声とともに右腕を掲げ、指を鳴らした。
 瞬間、水の球が現れる。構成式のほとんどを省いて生み出された水は、少女の手ぶりに合わせて降り注いだ。落下途中に槍頭の形に変わり、獣たちへと突き刺さる。串刺しになった獣たちは崩れて消え、黒い塵と化した。
 人間の青年は最初、それを黙って見ていた。が、気配を感じて身をひねる。すぐさま引き金を引いた。彼のすぐ後ろまで迫っていた漆黒のダチョウが、鼓膜をかき乱すような声を上げて倒れる。その体もまた、塵のように消える。さらに、後続の獣たちには棒手裏剣が突き刺さった。これは、青年の攻撃ではない。
 あたりが黒に覆われる。だがそれも、次第に薄くなった。砂嵐が収まったかのように視界が開けると、青年はようやく銃を下ろす。瞳の色が黒茶に戻った。そばで、少女が靴音ひとつ立てずに着地した。
「おーしまい。だよね?」
「今のところはな」
 少女の声がけに、青年はほほ笑んで答える。ふう、とひとつ息を吐いた。
「やれやれ。依頼を受けてきたはいいけど……こっちの大陸でも『これ』に遭遇するとは」
 彼らは、旅人だ。目的地はない。帰る場所もない。ただ放浪を続け、時折人々の困りごとを解決したり、厄介事に首を突っ込んだりしている。今回も、近隣の町の人から『最近、変な獣が出る。様子を見てきてほしい』という依頼を受けてここまで来たのだった。その結果、遭遇したのは見覚えのある黒い獣たち。彼らはそれを『魔獣』と呼んでいる。
 魔獣の残滓をながめていた少女が、青い眉を寄せた。
「うーん。やっぱり」
「何がやっぱりなんだ」
「こいつら、シーレ大陸にいた奴より強いよ」
「……それは、俺も感じた」
 青年は、手元の銃を見下ろす。彼らが知っている黒い獣は、ある程度強力な攻撃を浴びせれば消滅した。しかし、ここにいるものたちは違う。
「普通の武器や、まじないの類はまるで通じない。幻獣種族の力やリネの術で、やっと消滅するんだもんな。面倒すぎる」
「うん。多分、こっちが本家だよ」
「本家?」
 青年がまばたきすると、少女は不敵に笑った。
「ほんものの神様――レーシュが生み出した、しもべ」
 この年頃の少女らしからぬ笑顔を見て、青年はひととき呆然とする。それから、眉を寄せた。
「神様、ねえ。ほんとにいるのか」
「いるよ。さんざん話は聞いてきたでしょ」
「そうだけど。あんまり実在しててほしくなかった」
「幻獣種族の血を継ぐ人が、今さら何を言ってるのー」
「ぐっ……そこを突かれると反応に困る……」
 幻獣種族。西のシーレ大陸に潜む、超常の力を持つ獣たち。彼らもある意味、あちらの神のようなものだ。己の半分を占める血のことを考えかけて、青年はかぶりを振った。今に意識を戻す。
「で、神様がしもべの獣を放っているということは……」
「うんうん。本格的に、喧嘩を始めるつもりでしょ。でもって、私たちへの牽制も兼ねてるねーこれは」
 のん気に語りながら、少女は棒手裏剣を回収する。青年はその後ろで「思いっきり見つかってる」と頭を抱えた。
 再びのため息の後、革帯ベルトに提げた鞄から弾倉を取り出す。慣れた手つきで装填した。
「どうする? 首突っ込むか?」
 青年が尋ねると、少女は軽やかに振り返り、小首をかしげる。少し考えた後、唇に指を添えてほほ笑んだ。
「やめとく。今の『翼』が頑張ってるみたいだし」
 その表情は、ただの少女のものではない。かつて、世界を見守る女神に仕えた魔導士の一人――『碧海の魔女』のそれである。
 息をのんだ青年は、動揺を悟られぬよう、大げさに肩をすくめた。
「先輩風を吹かせて高みの見物か」
「ふっふっふ。一回やってみたかったんだあ、そういうの」
「……『翼』たちが気の毒になってきた……」
 満面の笑みで踊る少女を見て、青年は頬を引きつらせる。次の瞬間、流れるように銃を構え、発砲した。南の空から突っ込んできた鳥の魔獣が吹っ飛ぶ。再び、両目が空色に染まる。少女も棒手裏剣を抜いた。
「こうやって魔獣を倒しているのは、いいんだろうか」
「これくらいはいいでしょー。倒さないと、私たちが襲われちゃうし」
「確かに」
 軽やかに言葉を交わした二人は、再び現れた魔獣の群れに武器を向ける。黒い靄が再び空を覆うと同時、地を蹴った。


 帝国北西山岳地帯でしばしば目撃されていた謎の獣は、この日を境に姿を消した。しかしその後、帝国領内の各所で似たような獣が現れることとなる。

(Ⅶ 女神たちの足跡・終)