聖職者の秘密を知った場所。『女神の選定』を知った壁画。それはステラたちにとって大きなきっかけであると同時に、宝箱にしまった小石のようなものだった。とっくに蓋をして鍵をかけた記憶の断片。それに再び相まみえることになろうとは、まったく思っていなかったのである。
「この壁画が……この教会に眠るもの……?」
ステラは呆然と呟く。その横でレクシオが、何やら難しい顔で考え込んでいた。
一方、後ろでは学友たちがささやきを交わす。
「僕はこれ、初めて見るけれど……」
「わたしもです」
「あーそっか。二人はあのとき、いなかったもんなあ。オスカーも」
トニーとナタリーが、『あの日』のことをかいつまんで説明していた。ステラたちはそれを半分以上聞き流していたが、彼らを案内した神父は、それをすくい上げてほほ笑む。
「あのときは、言葉だけで説明するよりも画を見ていただいた方が理解しやすいだろう、と思ったんです。教会の外の方からすると、荒唐無稽な話に聞こえるでしょうし」
それはそうだ、とステラはうなずく。その後ろでトニーが「で、今回は?」と猫目を光らせた。神父の微笑がやや鋭いものになる。
「女神の魔力を得たお二人に見ていただいたら、何か新しい発見があるかもしれない――と考えたのです。ヴィント・エルデ氏の伝言のこともあります」
彼のささやきは、穏やかでありながらどこか重い。指名手配犯の名を口にするときも、それは変わらなかった。ステラはそのことに安堵して、片割れを振り返る。小さくうなずいた彼とともに、壁画を見上げた。
背中から大きな一対の翼が生えた女性と、その前に少し距離を置いてひざまずく二人の人間。金の冠をかぶった男性と銀の剣を携えた女性――に見えるが、これを描いた人がどういう意識や意図を持って描いたのかは、一目見た限りではわからない。天から光が降り注ぎ、二人の人間のまわりには花が咲いている、ようにも見える。
初秋にも見た壁画は、改めて観察するとあのときとは違うもののようにも映る。けれどそれは、あくまでステラたちの感覚の話だ。実際は、あのときから変わったところはひとつもない……ように、思われた。
「……あれ?」
「おやま、こいつは……」
壁画をながめていた『翼』二人は、少しして目を瞬いた。ステラが先に、壁画の一点を指さす。
「ねえ、レク。あれ、なんだろ」
「俺も今気づいた。なんだろうな」
レクシオも、首をひねりつつ身を乗り出す。
以前にはなかったものを見つけたのは、壁画の中心付近。女神と、『翼』と思しき二人の間にある、やや不自然な空白。そこに――うっすらと、文章のようなものが書かれていた。
「んー……だめだ、読めん。薄すぎるし、そもそもあれ、このへんの言葉じゃないな」
「そっかあ。レクがだめならあたしもだめだ」
あっさりとかぶりを振った少女に、少年は湿っぽい視線を向ける。
「諦め方が雑すぎませんかね、騎士さんよ」
「身の程をわきまえているんですよ、我が王」
自然とそんなやり取りをしてしまったのは、壁画の前だからだろうか。二人が笑いながら途方に暮れていたところで、後ろから戸惑いの声が飛んできた。
「えっと……二人とも、なんの話してんの? 何が読めないって?」
ナタリーが恐る恐る挙手する。ステラとレクシオは顔を見合わせたのち、学友たちを振り返った。
「……もしかして、みんな、見えてない?」
ステラが慎重に問うと、五人は力強くうなずいた。ぞっとして肩を抱いた彼女の横で、レクシオが神父を振り返る。
「神父さんも見えませんか? あそこの文字」
「ええ……。いつもと変わらないように見えます」
彼は困惑気味に首を振った。けれど、その目に曇りはない。『ステラとレクシオには何か見えているのだろう』と信じて、少しも疑っていない様子だった。
頭をかいたレクシオが、ステラの肩を軽く叩く。
「もう少し近づいてみるか。そしたら、多少は判読できるかもしれない」
「う、うん」
二人は揃って半歩踏み出し、壁画に触れない程度に顔を近づける。そのとき、無意識だったのだろう、レクシオが伸ばした指が彼らにしか見えない文字をなぞっていた。指が直接触れていたわけではない。けれど、ふいに爪の先に灯った金色の明かりが、ふわりと舞って文字に触れた。
二人が変化に気づいたのは、そのときである。顔のまわりがかっと熱くなり、思わず後ずさりしていた。
そして、直後。目の前が光に満たされる。
「うわっ」
悲鳴を上げたのがどちらだったのか、ステラにはよくわかっていなかった。ただ、反射的に顔を腕で覆っていた。
「ぎゃっ!」
「何、なになにー!?」
「つかまるのは構わないけれど、引っ張られると危ないかな! ナタリーくん!」
背後から騒ぐ声が聞こえる。どうやら、今度の光はジャックたちにも見えているらしい。
小部屋を満たした光は、すぐに消えた。霧が晴れるように、静かな変化であった。ステラはそっと腕を下ろし、無意識のうちに閉じていた目を開く。壁画を映しているはずの視界には、まだ小さな光の残滓がちらちらと舞っていた。それらが完全に消える前に――彼女は思わず後ずさる。
「な……何これ?」
「おお、これはこれは。最近見たことのある光景だな」
いつの間にか平常心を取り戻していたレクシオが、隣から顔をのぞかせた。その声と言葉でいくらか冷静になったステラは、改めて壁画を見つめる。
二人だけが見ることのできる文章が浮き出ていた個所に、光り輝く文字が並んでいた。に、光り輝く文字が並んでいた。字の形や配置を見る限り、最初に見つけた文章と同じ内容のものだろう。
ステラはちらと背後を振り返る。学友たちの唖然とした顔が目に入った。今度の文字も、先ほどの光と同じく、しっかり見えているようだ。
「あの、もしかしてこれが、お二人が見ていたもの……ですか?」
「そう。さっきまでは、こんなに光ってなかったけどね」
ステラは、おずおずと問うてきたミオンに、冗談めかして答える。それから前を向きなおした。今なお淡い輝きを放つ文字に目を走らせ――奇妙なことに気が付いた。
書いてあることがわかるのだ。文字が読めるわけではないのに、内容が頭の中に入ってくるようである。
決して快くない感覚を味わっていたのは、ステラだけではなかった。
「『王は、祭壇の前で神に祈った。騎士は、王の隣で森羅万象に誓いを立てた』――」
隣から聞こえたささやき声に、ステラはぱっと振り返る。彼女が『理解した』のと同じ内容を口に出した少年は、彼女の方を見て小さく顎を動かした。ステラも同じようにしてから、彼が読み上げた文章の続きを引き取る。
「『ラフィアが王の祈りを聞いた。彼女は庭の見守りを片割れに任せ、祈りを辿った。王と騎士を見つけると、彼らのことばを聞くために、彼らと同じ形にみずからを変えた』」
ささやきながら、ステラは己の頭がこんがらがっていることを自覚した。言葉だけが上滑りして、そのままどこぞへこぼれ落ちる気がしてしまう。だから――誰かが、「え?」と声をこぼしたことにも気づいていなかった。
ステラが混乱していることを察したのだろう。背後へ目配せしていたレクシオが、すぐさま残りの文章を読み上げた。
「『王の祈りと騎士の誓いは、彼女たちと庭とをつなぐ道をつくった。その道を辿って、ラフィアは王と騎士の前に現れた。ラフィアを見た王は、神よ、と呟いた。このとき、ラフィアたちは神という名をつけられた』」
少年の声は、そこでぴたりと止まる。あたたかな闇を揺らした吐息が、文章の終わりを静かに告げた。場の空気が弛緩して、人の音が戻ってくる。けれど、誰かが言葉を発する前に、次の異変が起きた。
輝いていた文字がふっと消える。かと思えば、何かがぱらりと音を立て、『翼』の間に降ってきた。先に反応したステラが、片手で落下物を受け止める。
固く、乾いた感触。彼女の手からわずかにはみ出たそれは、石の破片のようだった。
「何これ……」
手を開いてまじまじとのぞき込んだステラは、疑問を途中でのみこむ羽目になる。隣から顔を出したレクシオも、目を丸くしていた。
「こりゃあ、陶片? いや……」
二人が首をひねっていることに気づいたのだろう。エドワーズが素早く、しかし穏やかに近づいてきた。
「何かありましたか?」
「ええっと、文字が消えたと思ったら、何かが落ちてきて。これなんですけど」
ステラはおずおずとエドワーズに破片のようなものを見せる。そうしながら、表面を改めて観察した。
ただの石のようでもあるが、材質が壁画と似ている。その表面には、細かい文字らしきものがびっしりと彫り込まれていた。整然と並ぶ文字は一見すると模様のようだ。凝視していると、だんだん目がちかちかしてくる。
エドワーズは少しの間、それを見つめていた。金色の眉が中心に寄り、眉間にわずかながらしわが刻まれる。
「これは、もしや……」
呟いて、すぐさまステラたちを見上げた。
「ここではなんとも言えません。資料室で、少し見せていただいてもよろしいでしょうか?」
「も、もちろん。よろしくお願いします」
落ちてきたのをステラが受け止めただけで、もとより彼女やレクシオの所有物ではない。二人はむしろ、積極的に頭を下げた。
呆然としていた学友たちを正気に戻し、小部屋を出る。先日と同じ机を囲んで待っていると、エドワーズが虫眼鏡と手袋を手に戻ってきた。手袋を装着し、再びステラから破片らしきものを受け取った彼は、その表面をレンズ越しに見つめる。破片を端から端まで眺めまわして、ようやく虫眼鏡から視線を外した。
ひと息ついた神父に、学生たちが期待のまなざしを向ける。それに気づいたエドワーズは、破片をステラに返してから、口を開いた。
「この物体の表面に刻まれていたのは、先ほど私たちが見たのと同じ文章でした」
「というと……さっき二人が唱えていた、あれですか」
「そうです」
二人を見やりながら尋ねたのは、オスカーである。彼が敬語を使う姿は、ステラたちにとってひどく新鮮だった。当の本人はエドワーズからの回答を得ると、旧友以外の面子が唖然としていることにも気づかず、顔を伏せてしまった。何やら考え込んでいるらしい。
難しい顔をしたのは、寡黙な少年ばかりではない。『調査団』団長もまた、形のよい眉をひそめていた。
「あの文章……どこかで聞いた物語のような気もするけれど、少し違ったんだよね」
ジャックの呟きにうなずいたエドワーズが、顎に指をかける。
「『神が初めて人前に現れた話』ですね。確かに、私が知っているものともかなり違っていました。あの話に『道』は出てこないはずですし……」
声が落ちて消えた、一瞬後。その場の全員が、はっと顔を見合わせた。ステラとレクシオは声を揃えて「道!」と叫ぶ。ナタリーが興奮した様子で手を叩いた。
「確かに、道って出てきたね。えーと、なんだっけ……」
「『王の祈りと騎士の誓いは、彼女たちと庭とをつなぐ道をつくった。その道を辿って、ラフィアは王と騎士の前に現れた』だったな」
頭をひねる少女の向かいで、オスカーが先ほどの文章をそらんじる。元々鋭い視線が、さらに研ぎ澄まされた。
「……もしかして、レクシオの父親が伝言なんて残したのは、『道』の手がかりを教えるためか?」
「あー。あり得る」
オスカーの推測に、レクシオが頭を抱えた。ステラもしきりに首を縦に振る。しかし、ほかの人々は怪訝そうな表情をしていた。トニーが雑に頭をかく。
「なんでレクの親父さんがそんなこと知ってんだよ」
「それは……まあ、あたしたちの知らないところで調べたんじゃない? ヴィントのことだし」
「ってか、『翼』のことを知ってる時点でおかしくね? 前々から思ってたけど」
「まあ、親父だからなあ。逃亡生活中にセルフィラ神族と鉢合わせたとか、そんなんだろ、どうせ」
噴出した疑問に答えたのは『翼』の二人。この中で数少ない、ヴィントとまともに顔を合わせたことのある二人でもある。彼らはヴィント・エルデという人物について推測を重ねることをほとんど放棄していた。投げやりな答えと乾いた表情から、トニーもそれを察したのだろう。大げさにため息をついて、突っ伏した。
資料室の一角に生ぬるい沈黙が落ちる。その中で、ミオンが慌てて破片を指さした。
「と、とにかく! これがわたしたちの探し物である可能性は高いですよね!」
「そうですね。伝言の内容を考えると……ほかの教会にも、似たような物が隠されているかもしれません」
くすりと笑ったエドワーズは、席を立つ。「まずはセント・ヴィリアに連絡してみましょうか」と呟いた彼は、何やら慌ただしく動きはじめる。事態が動き出した空気を察知し、ステラなどは身を固くした。一方、ジャックが資料室の壁の方を見やって、瞳をきらめかせる。彼の視線の先には壁掛け時計があった。
「急いで向かえば、今日中にセント・ヴィリア教会も見せていただけるかな?」
「……そうだな。教会の対応次第だが」
悪童のように笑ったジャックに、オスカーがぽつりと答える。いつもはあまり感情を映さない瞳が、わんぱく少年を思わせる輝きを放っていた。二人の長の姿を目撃してしまったステラは、思わず彼らの友人を振り返る。その友人は、猫目を細め、無言で肩をすくめた。