第二章 姉妹神の記録(4)

 リーリス教会は、ステラたちが今まで訪ねたどの教会よりも窓が小さく、昼間であっても薄暗い。ただ、今は屋根に穿たれた穴から日の光が差し込んで、礼拝の間をやわらかく照らし出していた。六脚ほどの長椅子が並んだ部屋はまだどこも壊れていないが、空気はずいぶん埃っぽかった。
 シンシアが咳き込む。ステラもしょぼしょぼする目を細めながら埃を払った。
「ひどい空気……ですけれど、礼拝の間が無事でよかったですね」
「うん。でも――」
 ステラは、腰の剣に手を当てて、目を閉じた。石材や砂ぼこりの苦い臭いのむこうから、鉄錆の臭いが漂ってくる。
 目を開けたステラは、シンシアに「ちょっと待っててくれる?」と言い置いて、つかつかと内部に踏み込んだ。
 長椅子の下を順番に見てまわり、「失礼します」と心の中で挨拶してから、神父が立つための壇に上る。少しずつ濃くなる血の臭いを辿って、壇の上から奥をのぞきこんだ。
「ステラさん? 何をなさって――」
 シンシアの問いかけを、か細い悲鳴が打ち消した。
 女神像の横の、少し奥まった空間。セント・ヴィリア教会でいうところの祭具を収める部屋があったあたりに、細い通路が伸びている。そこに、神官の法衣をまとった男性がうずくまっていた。どこか幼さを感じる顔立ちだが、ベルよりはずっと年上だろう。布にくるまれた何かを大事そうに抱えている。
 彼はステラにおびえきった目を向けていたが、相手が少女だと気づくと、全身から力を抜いた。恐れと入れ替わりに、畏れの色が浮かび上がる。
「あ、あなたは――」
 震え声が礼拝の間にこだました。ステラは人差し指を口もとに当てる。ぴたりと黙った神官のかたわらにかがみこんで、顔をしかめた。彼の右肩に滲む赤茶色を見つける。
「肩、怪我されてますね?」
「あ……はい。『あの子』から逃げるときに、少し、かすって」
 何を思い出したのか、神官は身震いした。ステラはあえてそこを追及せず「立てそうですか」と尋ねる。彼が小さくうなずくと、壇から下りて神官に肩を貸す。手ごろな長椅子に座らせたところで、シンシアが駆けてきた。
「診せてください。簡単なものなら、医療魔導術も使えますので」
「ありがとう、シンシア」
 ステラは、肩をすくめつつもほほ笑んで、仲間に場を譲る。
 シンシアは神官の肩の傷を見るや、鞄から救急箱を取り出す。消毒などを済ませると、魔導術で傷をふさいだ。ステラは見張りに徹していたので、その場面を見てはいなかったが、魔力の動きで事態を把握している。
「あとは、傷口が乾いてふさがるのを待ちましょう。なるべく衝撃を加えないようになさってください」
「は、はい。ありがとうございます」
 そのやり取りで治療が終わったことを察したステラは、振り返る。
 改めて、自己紹介と情報共有をした。ステラの名を聞いた瞬間ひざまずこうとした神官をなだめて、この教会で何が起こったのかを尋ねると、彼はぽつぽつと答えてくれる。
「実は、私共も状況がよくわかっていないのです。皆様が本日いらっしゃることは連絡を受けていたので、『物』をすぐにお見せできるよう準備をしていたのですが……突然、教会の天井に穴があいて。そこから、知らない二人組が乗り込んできました」
「一人はローブをまとった殿方、もう一人は金と銀の髪の男の子、ですわね」
 シンシアがゆっくり確認すると、神官は顔をこわばらせてうなずく。
「二人はまず、神父様に襲いかかりました。神父様はすぐに逃げられましたが、その際、私にささやかれたのです。『これを持って教会の裏口から逃げなさい』と」
 神官は腕に抱えたものを見下ろす。おそらくは、『リーリス教会に眠るもの』だ。少女たちが息をのんだところで、彼は続けた。
「私は神父様のお言葉に従いました。しかし、これを確保したところで――少年が戻ってきたのです。なんとか彼から逃げ出して、夢中でこの礼拝の間に隠れておりました」
「そういうことでしたか……」
 シンシアが柳眉をしかめ、ステラを振り返った。
「ここまで来ていないとなると、レーシュは神官様を見失ったのでしょうか」
「だといいけど――みんなから聞いたレーシュの話からすると、そうあっさり見逃すとは思えない」
『翼』の片割れとその仲間、軍人、イルフォード家の次期当主。それだけの面子が揃っていながら、まともに歯が立たなかった相手だ。そんな怪物が、戦闘訓練も積んでいない人間を仕留め損ねるわけがない。
「どちらかというと、泳がせていたのかもしれない」
「なんのために?」
「例えば……あたしたちをおびき寄せるために、とか」
 ステラはさりげなく剣を抜く。
「違うかしら」
 瞬間、列柱の間で殺気がふくれあがった。
 カタカタと細かい音が響く。長椅子や照明、壇が振動しているのだ。人間たちがそうと気づいた瞬間、息が止まるほどの衝撃が押し寄せた。シンシアが神官の上に覆いかぶさる。ステラは歯を食いしばって耐え、剣を床に突き立てた。刃から銀色の光があふれ出し、三人を取り囲む。同時、衝撃が収まった。
「不思議な言い方をするんですね、『おねえさん』」
 声変わり前の少年の高い声が、天井に跳ね返る。剣先を引き抜いたステラは、それをそのまま前へ向けた。
 足音は聞こえない。なんの前触れもなく、少年が彼女たちの『上』に現れた。
「確認するまでもないじゃありませんか。一瞬で吹き飛ばせる相手をわざと見逃す理由なんて、『釣り』くらいしかないでしょう」
 深い青色の瞳を細めた少年が、小首をかしげる。金銀の髪がさらりと流れた。甘い声で奏でられる物騒な言葉に、ステラは顔をしかめる。
「本当にセシルくんがいるわね。……いや、もうそう呼ばない方がいいか」
「はい。レーシュと申します。改めて、お見知りおきください」
 かつてのように無邪気な笑顔を見せた神はしかし、瞼の隙間から冷たい瞳をのぞかせる。すっと伸びた白い人差し指が、ステラの背後に向けられた。
「さて。早速ですが、神官さんが持っている物をこちらに渡してくださいませんか?」
「……敵からそう言われて、素直に渡すとでも?」
 尖った声で答えたのはシンシアだ。肩を負傷した神官を気遣いつつも、少年神から目を離さない。にらまれたレーシュは、そよ風に吹かれた程度にも動じず、顎に指をかけた。
「そうですか。それでは、力ずくで奪うとしましょう。あなたたちを消すついでに、ね」
 ごく自然な、買い物に行こう、というような口調での宣告。
 レーシュが軽く手を振った。ぞわりと肌が粟立つ感覚を覚えたステラは、床を蹴って剣を振る。
 孤を描いた銀光が、力の波とぶつかり合う。凄まじい勢いで火花が飛び散り、再び天地が振動した。
「おっと」
「シンシア、逃げて!」
 叫ぶと同時、ステラはさらに踏み込んだ。女神の魔力を砲弾よろしく放つと、レーシュは鬱陶しそうにそれを避ける。彼が床近くまで下りたとき、剣を逆手に持って突進した。幼い少年に容赦なく肘鉄を叩きこむ。軽やかにかわされたが、それも織り込み済みだ。彼との距離が詰まったこの瞬間、ステラは再び剣を返した。白い刃先が同じくらい白い貌をひっかく。しかし、彼の動きを止められるほどの痛手は与えられなかった。
「あらあら。意外とグイグイ来るんですね。もう少しためらうかと思っていました」
 レーシュが薄ら笑いを浮かべて床を蹴る。ステラは負けじと追いすがった。彼に『力』を使う隙を与えてはいけない。それに。
「悪いけど――『私の王』を傷つけた相手に躊躇できるほど、優しくないのよ」
 沸騰した感情を力に変え、速く鋭く剣を突く。レーシュがわずかに顔をそむけたが、その頬に一文字の切り傷が走った。ほんの少し飛び散った赤が、澄み切っていた白を染め上げる。
 小さな背中が壁にぶつかった。追い詰めた、とステラが思ったとき、レーシュはふっと吐息のような笑声を立てた。その声は徐々に高まって、最後には哄笑となる。
「いいですね! それでこそラフィアの『翼』だ! 思えば、おまえたちはいつもそうだった!」
 彼は恍惚として目を細め、傷口から滴った血を指でぬぐった。すると、それは光の粒となり、さらさらと天に昇って消えていく。
 焦るでもなく、落ち着き払っているでもなく。喜悦の表情を浮かべるセルフィラ神族を、ステラは油断なくにらみつけていた。剣も、決して逸らさない。
 小さな手が持ち上がるのを見て、すぐさま刃をそちらに向けた。しかし、神剣が反逆の神を斬る前に、再び姿が消える。
 今度のステラは冷静に飛びのき、天井を仰ぎ見る。彼女の視線を受け止めたレーシュは、冷たい笑みを浮かべた。
 それに応じるように地面が揺れ、教会の床のあちこちが盛り上がる。ステラはそれらを淡々とかわしたが、戸口の方から上がった悲鳴を聞いて、はっと振り返った。
「シンシア!」
「だ、大丈夫です。驚いただけ――きゃっ!」
 外と内の境目で、神官を支えていたシンシアが叫び返す。その足もとがぼこっと音を立てて崩れた。よろめいた少女のもとに石の破片が飛ぶ。しかし、とっさに張られた『ふたつ』の防壁が彼らを守った。
 シンシアは緑の瞳を丸くして神官を見つめる。彼女が「あ、ありがとうございます」と呟くと、彼は「いえ」と苦笑した。
 ステラもそれを視線だけで確かめて、ほっと顔をほころばせる。それからすぐにレーシュの方に向き直った。彼が放った石の破片を最小限の動作で避けて、剣を薙ぐ。間断なく踏み込んで攻撃を続けているうち、少年の体に切り傷が増えていった。それはすぐに光となって消えてしまうが、ラメドやヌンと戦ったときのことを踏まえると、痛みや疲れとして蓄積していっているのは確かだ。
 レーシュがひとつ、ため息をつく。そして、ゆっくり腕を上げる。
 ステラは剣を振りかぶった。が、次の時、全身から力が抜けた。
「なっ――!?」
 剣を取り落としそうになって、慌てて両手に力を込める。それでも脱力感に抗い切れず、膝をついた。
 力が抜けたのは、彼女だけではなかった。先ほど足止めを食らった仲間と神官も、その場でうずくまっている。負傷している神官は顔をゆがめて少女に寄りかかっていた。
 レーシュは、そんな人間たちを睥睨している。冷たい青のまなざしに気づいたステラは、彼を鋭くにらんだ。今日何度目になるか、もはやわからない。
「いったい、何を――」
「簡単なことですよ。私の二つ名は、とうにご存知でしょう?」
 少年の姿をした神は、高く両腕を上げた。上方から差し込んだ光が金銀の髪と白い手足を照らし出し、芝居がかった仕草ですらも神々しく映し出す。
「『天と生ある獣の神』。この『生ある獣』には、あなた方人間も含まれています」
 意味ありげな微笑を見たステラの顔から血の気が引く。つまり彼は、ヌンと同じように生き物の命を奪うことができるのか。口に出さなかった疑問に、けれどレーシュは流暢に答えた。
「冥府の神ではありませんので、生命に直接干渉することはできません。ただ、ほんの少しの間、あなた方の動きを制限できるだけです。もちろん、ラフィアのもとではこのような力の使い方は禁止されていましたが」
「セシル」を思わせる笑みを見せたレーシュは、右手で手招きのような動きをする。そのとき、神官が悲鳴を上げた。彼が抱えていた『物』を包んでいた布が勝手に剥がれ、中身が浮き上がったのだ。それは吸い寄せられるようにレーシュのもとへ飛んでいく。
 絶望にひきつった顔の神官をながめながら、レーシュはそれを――複雑な模様が描かれた獣皮紙をつかんだ。
「最初からこうすればよかった――と言いたいところですが、ラフィア陣営の神や魔女に嗅ぎつけられては面倒ですからね。あなた方が来るのを待って正解でした」
 くすくすと、甘い嘲笑が礼拝の間に響く。
 ステラは歯を食いしばった。
 動かなければ。動け。動いて、取り返せ。何度も念じるが、体はまったく言うことを聞かない。
 レーシュが人間たちに背を向ける。その気になれば瞬間移動もできるというのに、わざと去る姿を見せつけているようだ。
 ステラは手足に力を込める。歯の隙間から、獣のごとき声が漏れる。
「まだ――まだだ」
 心に火がついた。それはみるみる勢いを増し、全身へと燃え広がる。炎は、理性の糸を焼き切る直前、銀色の魔力となった。
「負けて、たまるかっ!」
 レーシュが弾かれたように振り返る。夜が来る前の空を閉じ込めたような瞳が見開かれる。
 それすらも、何もかも、銀色の光に焼き尽くされた。