レーシュは、ロアンナの東端に佇む建造物の前に立っていた。
規則的に並ぶ柱。ところどころに年月の跡が見えつつも、どっしりと建っている基礎。反対に、屋根はない。とうの昔に朽ちたのだ。
入口は縦に長く、内部は狭いように見えて奥行きがある。知識神を模した像と神録、そして供物のみを置くためだけの神殿。その形は、思いのほかしっかりと残っていた。
「神父の一族が保存しているのでしたか。そういうところは、かわいげがあるのですがね」
思ってもいないことを呟いて、レーシュは神殿に足を踏み入れる。
――カール・セレストは彼らの襲撃を予期していたのだろう。ゆえに神録を忘れ去られた神殿に移し、その上であえて『翼』ご一行を教会に案内した。アインとレーシュの意識をそちらへ向けるために。
無駄なことを、とレーシュは嗤った。所詮は人間の小細工だ。そんなもので神々を欺けるはずもない。
神殿の奥へ進む。最奥の台の上に、神像が安置されている。人が両手で持てるほどの大きさだ。色はすっかり剥げ落ちているが、これも形は綺麗に残っていた。
「さて、肝心の神録は……」
言いながら、レーシュは像の後ろをのぞきこむ。案の定、そこにあった。清らかな紫色の、宝石のような石。表面には小さな文字で記録の一部が彫られている。
レーシュはそれを指の一振りで引き寄せる。
その瞬間。忌まわしい、太陽のごとき魔力が首筋を撫ぜた。
レーシュが振り向こうとした瞬間、しゅっと空気が鳴る。背後から細く長い銀糸が伸びて、神録を巻き取った。
「わざわざ見せびらかしてくれて助かったぜ」
軽薄な――そう装っている声が響く。
レーシュは宵の色の瞳を見開いた。振り返る。手を伸ばす。視線の先にはやはり、エルデの血を継ぐ少年が立っていた。
「おやまあ。そんなに慌ててどうしたよ、神サマ?」
少年、レクシオ・エルデは疲労のにじんだ顔に笑みを刻む。そして、奪い取った神録をその手に収めた。
※
ロアンナの町の端。閑静な通りを抜けて、森のように茂っている草木をかき分けた先に、神殿はあった。
一人先行したレクシオは、予定通りレーシュと対峙する。間一髪のところで奪い取った石を外衣のポケットにねじ込む。
レーシュが目を細めた。
「お一人ですか? 『銀の翼』も一緒に来るかと思っていたのですが」
笑い含みの問いかけに対し、レクシオは肩をすくめた。
「おまえねえ。わかってて言ってるだろ」
アインがみすみすステラを見逃すとは思えない。そして、ステラ自身も、あの激情を真っ向から受け止める気でいる。二人を繋ぐものが何なのか。直接知らずとも、想像はできた。
ならば、『金の翼』がやるべきことは決まっている。
レクシオは静かに少年神をにらむ。常人であれば震えあがりそうなその視線を受け止めてなお、彼は平然としていた。かすかな笑いの吐息を漏らし、悠然と片手を挙げる。
「……まあ、いいでしょう。『金の選定』のときと同じ轍を踏みたいというのなら、お望み通り再現して差し上げます」
宣言の合間にも、小さな手のまわりで膨大な力が渦を巻く。靴底で剥げかけの石畳をこすったレクシオは、思考を全力で回転させた。
汗がひとすじ、流れ落ちる。白がはらりと下りてくる。神殿近くのモミの木陰に集まっていた鳥たちが、一斉に飛び立った。
力が弾ける。熱波と突風が押し寄せる。五感がそれらを知覚する直前、レクシオは『二つ』の構成式を展開した。
ひとつは、自身を覆う防壁魔導術。通常の防壁よりも金色が濃い。もうひとつは、レーシュの力を相殺するための盾。
美しい幾何学模様でくみ上げられた氷の盾がそそり立つ。真冬のロアンナで彼に対抗できる魔導術として、とっさに思い浮かんだのがこれだった。盾を見たレーシュが、青い両目を見開いた。
力がぶつかる。か細い悲鳴を上げた氷の盾は、数秒後に砕け散った。力の波は石畳を砕きながら防壁の方へと押し寄せる。レクシオは顔をゆがめつつ、なんとか黄金の半球を維持した。
無慈悲な嵐もいずれは過ぎ去る。第一撃のほとんどをしのいだと判断したレクシオは、防壁魔導術を解いた。同時、身をひるがえして走り出す。
「私から逃げられるとお思いで?」
当然、レーシュはすぐさま追ってくる。レクシオが鋼線を抜いたとき、彼の真横を疾風が駆け抜けた。
少年は視線だけで背後をうかがう。
彼と入れ替わるように飛び込んできたオスカーが、レーシュに殴りかかっていた。さすがの『天と生ある獣の神』も意表を突かれた様子で飛びのいている。
「おやまあ。いたいけな子供に殴りかかるとは、こわーいお兄さんですね?」
「おまえはいたいけな子供に見えないからな」
淡白に返したオスカーが、冷静に距離を取って手首を回す。「わあひどい」と笑ったレーシュは、さりげなく空中で指を丸めて弾いた。
純白の矢の群れが、曇天を覆う。それらは当たり前のようにレクシオたちを狙って降り注いだ。
レクシオは鋼線を薙ぐ。『金の魔力』を注ぎ込んだ金属の糸は、いくつもの白い矢を砕いた。だが、それも全体の十分の一に満たない数だ。舌打ちしたレクシオは、再び防壁を張ろうと試みる。――その瞬間、両目の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
反射的に目を細める。その一瞬が命取りになるとはわかっていたが、体の反応は完全に制御できるものではない。
空が不自然に白く輝く。レクシオが臍を噛んだとき――彼のものではない防壁が、少年たちの頭上を覆った。
「オスカー、ご無事ですか!?」
「レク、こっちだ!」
なだらかな坂の上から学友たちの声がする。駆け寄ってくるシンシアの向こうで、トニーが大きく手を振っていた。
シンシアは防壁を維持したまま白い指を宙に滑らせる。鋭い風が吹き抜けて、白い矢の軌道をわずかにずらした。
神によって生み出された矢の雨は、ほとんどが防壁魔導術に打ち消され、いくらかが遠くの茂みを吹き飛ばした。
輝きが消え失せると同時、オスカーが再び飛び出す。一瞬でもレーシュを捕えようと奮戦した。当然、レーシュは彼の攻撃を舞うようにかわすが、オスカーはオスカーで眉一つ動かさない。
「あなた、ラメドに似ていますね。面倒です」
「『知識と先見の神』と並べていただけるとは、光栄なことだ」
レーシュの呟きに対し、少年は淡々と答える。ただ、その声にはほんのわずか、怒りの色がにじんでいた。
オスカーが強烈な蹴りを繰り出したとき、彼の背後から人影が躍り出る。軽やかに飛び跳ねた『彼女』は通常よりやや短めの長剣を振り下ろした。レーシュはそのどちらをもひらりとかわす。剣先だけが、金銀の髪をわずかに切った。
「っかぁ~! 外した!」
オスカーの隣に着地したブライス・コナーが悔しそうに言う。彼女らの部長は、感情の読めない目でそちらを一瞥した。
「武勇伝はひとつ増えたな」
「神様の髪を切ったって? へへ、一生ネタにできるじゃん」
ブライスは白い歯を見せて笑う。無邪気な子供のようだが、構えには一切隙がない。レーシュが再び光の矢を飛ばすと、それを剣で弾いた。軌道を逸らした矢によって、道端の細木が真っ二つになる。それを見てしまったブライスは、「わっ! ごめんなさーい!」と誰にともなく叫んだ。
――そんな『事故』はありつつも。『研究部』の面々が奮闘してくれたおかげで、レクシオは敵からかなり距離を取れた。なだらかな坂を駆け上がり、トニーと合流する。
帽子の下で猫目が光る。
「ようレクシオ。例の物はどうなった?」
「ここにあるよ」
レクシオが外衣のポケットに触れると、トニーは「おっしゃ!」と拳を握る。しかし、すぐに表情を引き締めた。
「とはいえ、まだ油断できないよなあ。ステラの報告を聞く限りだと、その気になればいつでも奪いに来れるみたいだし」
「ああ。一応対策はしてみたけど、どこまで有効かはわからない。こっからが勝負だな」
「となると――」
に、と笑ったトニーが左腕を高く掲げる。手のひらの上で構成式が踊り、黄緑色の花火が上がった。
それを見た『研究部』の面々が、一斉にレクシオたちの方へ駆けてくる。二人もまた、走り出した。
「さあさ、ステラが来るまで命がけの鬼ごっこだぜ!」
トニーが軽い調子で言い放つ。レクシオは思わず「洒落になんねえよ」と突っ込んだ。
全力で逃げる学生たち。当然、レーシュが見逃してくれるわけもなく。道中、激しい妨害があった。逃げる側は、対処を余儀なくされる。何かが飛んでくれば、防壁か魔導術で打ち返した。それで防ぎきれない攻撃が飛んできたときは、『金の翼』の出番である。
ほんの一瞬、天地がねじれた。身を寄せ合う雲を貫いて、巨木のごとき光線が降ってくる。急停止したレクシオは、空中に指を滑らせた。金の魔力が構成式に吸い込まれる。巨大な盾が彼らを守るように顕現し、その上から金色の巨大な鳥が飛び出した。『金の魔力』で作られた鳥は、神が呼んだ光線めがけて突撃する。
光と光の狭間で、色とりどりの火花が弾けた。高音が大気を震わせ、衝撃波が地面を砕く。
レクシオたちは、揺れに翻弄されながら、走り続けた。
「あーなるほど。魔導士が『翼』になるとこういう芸当ができるわけだ」
この世の終わりのような光景に、トニーが気の抜けた言葉をこぼす。隣で小石の弾丸を避けたブライスは、目を輝かせていた。
「すごいねえ、無敵じゃん」
「いやいや。そうでもねえよ」
レクシオは、息を整えながら答える。声色にも表情にも、もはやごまかしきれないほどの疲労がにじみ出ていた。これほど疲れるのは『金の魔力』を操っているせいか――魔導術を連発しているせいか。
『大きく魔力を動かし、消耗するような術の使用は、しばらく控えた方がよろしいと存じます』
年明けに聞いた神官の忠告が、少年の脳裏にこだまする。あれからそれなりの時が経っているので、もう大きな魔導術を使っても問題ないと思いたい。しかし、先ほどの目の痛みを思い出すと、自信はみるみるしぼんでいく。
「うわっと」
ふいに、ブライスが声を上げた。つかの間全員の視線が彼女に集中する。
「どうしました、ブライス?」
「ん? んー……今一瞬、体から力が抜けた気がして……でも気のせいかなー?」
怪訝そうにしつつも、少女はあっけらかんとしていた。心配する友人に対してもいつもの笑みを向けている。その上空で、レーシュがあからさまに顔をしかめていた。――自身の権能、『生ある獣』の動きを制御する力が思うように働かなかったことに、いらだっているのだろう。
レクシオはこっそりほほ笑む。
「どちらにせよ、手ぇ抜いていられる状況じゃないしな」
言い聞かせるように呟いて、ポケットに触れた。石の感触があることを確かめて、レクシオは走り続ける。隣に並んだオスカーが、ちらとにらんできたことを、彼は知らない。