少女は、小さくて静かな町に住んでいた。父と母との、三人暮らしだった。
青い空がなかなか見えず、神殿以外に目を引くものがない町だったが、少女はこの町が好きだった。特に、澄み切った朝の静けさが好きだった。
父も母も、仕事をしていた。父はほぼ毎日、母は週に二度程度。二人ともが仕事のとき、少女は母についていっていた。人々に読み書きと算術を教える仕事だった。神殿の前で懸命に学ぶ人々に、母も真摯に向き合っていた。
――雪がちらつくある日。少女は、近所の子らと遊ぶことになっていた。母は前日から作っていたお菓子を少女に渡し「みんなで食べなさいね」と言った。そして、少女を送り出す前に、こうも言った。
「暗くなる前に帰ってくるのよ。今日は、お父さんがいつもより早く帰ってくるのだし」
少女は、うん、と答えて町に出ていった。そして、約束をしていた子らと落ち合った。
遊ぶ場所は、特に決めていない。子供にとって、この町すべてが遊び場だった。道端で石蹴りをしたり、家々を使ってかくれんぼをしたり、川辺の低木に成っている木の実をつまんで食べてみたりする。
楽しく遊んでいる途中、別の子供の一団と出会った。彼らは少女を指して、
「『いたんしゃ』の子だ」
「女神さまを信じない、わるいやつだ」
「こんなやつと遊んじゃいけないんだ」
そんなふうに言う。が、少女とまわりの子らは誰も気にしない。少女の家が女神ラフィアではなく、その従神である知識神を信仰しているのは確かだが、決して女神を信じていないわけではない。それを、彼らは知っていた。
満足いくまで遊んだ後、少女は町の子らと別れた。日が落ちはじめるより、少し早い時間だった。
少女は家へ帰った。――だが、彼女を出迎えたのは、優しい父母ではなかった。
白い服を着て、武器を帯びた人々。女神に仕える戦士、神兵だ。
なぜ神兵さまがうちにいるのだろう。少女が呆然としていると、神兵たちが彼女を振り返った。うち一人が、恐ろしい形相で尋ねてくる。
「この家の子供か?」
少女はうなずいた。すると、その神兵が大股で歩いてきて、少女の腕をつかんだ。
痛い、と少女は叫んだ。しかし、その神兵は離してくれなかった。彼の隣にいた、いくぶんか若い神兵が剣を抜く。
「異端者の子だ」
「女神様を軽んじる、背教者の芽だ」
殺せ、殺せ、とまわりから声が上がる。
確かに父母は『知識と先見の神』を信仰していたが、その神だって女神の旗下にある。背教者と呼ばれる筋合いはないはずだった。
わけがわからない。少女は、恐ろしい合唱の中で、母の姿を探し求めた。そして――神兵の群れの背後に『それ』を見つけた。
力なく投げ出された、手と頭。人々の隙間から見えたそれは、少女の母のものだった。母の頭は、体は、痣と血に染まって、ところどころが変形していた。
「おかあさん?」
少女は、何度も母を呼んだ。しかし、母は応えなかった。それどころか、指の一本すら動かなかった。
若い神兵が剣を掲げる。白銀の刃が少女の方を向いて、チカリと光った。
少女はぼうっとそれを見上げる。母の死も、眼前に迫る死も、受け入れられていなかった。
刃が振り下ろされる、直前。
「やめなさい」
男の声が響いた。
少女は最初、父が帰ってきたのかと思った。しかし、すぐに違うと気づいた。父の声は、ここまで低くない。こんなに、どっしりとはしていない。
いつの間にか、神兵たちの前に一人の男が立っていた。少女の父よりやや年上のようで、礼服を身にまとっている。
「何者だ」
少女を捕まえている神兵が、居丈高に問う。男は少しも動じず、「通りすがりの者だ」と答えた。不審がるように眉をしかめた神兵に対して、言葉を重ねる。
「それより、その子を離しなさい。これ以上は看過できない」
「黙れ! いきなり現れて、何を――」
神兵が叫ぶ。男は、それをさえぎるように右手を前へ出した。
「やめなさい」
三度、告げる。その瞬間、神兵たちが凍りついた。先ほど叫んだ者だけではなく、全員が置物となってしまったかのようだった。
少女の腕を捕えていた手からも力が抜ける。少女はよろめきながらも腕を振りほどき、呆然と神兵たちを見上げた。
時間が止まったのかと思った。けれど、違う。彼らの指先や瞼はぴくぴくしている。どちらかというと、見えない縄で縛られてしまったかのようだった。
「そこの君」
低い声が、落ちる。少女ははっとして振り向いた。礼服姿の男が、静かに少女を見ていた。
「死にたくなければ、ここから離れなさい。どこか遠くに行きなさい」
男は淡々と言った。少女は一度母の方を見て、また男を見上げた。
「遠くって……どこ?」
男はわずかに眉を上げた。それから、片手で顎を撫でる。
しばしの沈黙。雪の花びらの数が、だんだんと増えてくる。ひたひたと冷気が迫る中、男は少女に歩み寄り、手を差し出した。
「おいで。生きる気があるのなら」
少女は目をいっぱいに見開いて、その手を見つめる。
大きくて、ごつごつしている。
少し迷って、少女は男の手を取った。
二人は、隣町に行った。少女の故郷より人の数が多く、『ラフィア神を一番に信じない者はおかしい』などという考え方も、そこまではびこっていない。一度まぎれこんでしまえば、小さな町の神兵に発見される心配は、まずなかった。
人混みを抜けて、やわらかい空気が漂う広場の隅で、身を寄せ合う。
男は、ラメドと名乗った。
「一応、『知識と先見の神』の一柱ということになっている」
続いた言葉を聞いて、少女は目をまんまるにする。それから、つんとそっぽを向いた。
「自分で神様を名乗るなんて、へんな人。神兵さまたちが探していた『はいきょうしゃ』って、あなたのことだったんじゃないの?」
するとラメドは、目をみはった後、やわらかく笑った。
「そうかもしれないな。……ラフィア様に叛いたのは、事実だ」
言葉の後半は、少女の耳には届いていなかった。むむむ、と眉を寄せて、行き交う人々をながめていた。変な気分だった。
「ねえ」
口を開く。ラメドが少し顔を動かす。少女は、恐る恐る続けた。
「なんで、あたしを助けてくれたの?」
ラメドは、少し黙ってから、答えた。
「君たち一家は、我々――『知識と先見の神』を信仰してくれていただろう。その、恩返しのようなものだ」
少女は横目で礼服姿の男をにらむ。また、これだ。自分が神様であるかのような口ぶり。
「本当は君のご両親も助けたかったのだが、間に合わなかった。申し訳ない」
言葉が続く。少女の胸に痛みが走る。父も、母と『同じこと』になったのだ。子供心に、そう察した。
二人は、またしばらく黙っていた。大きな店の軒先、石段に座って、町の流れと喧騒に身を浸す。
少女は、紫がかってひび割れた唇を開いた。
「……やっぱり、へんなの」
「ん?」と、ラメドが少女を見る。少女は、あえて声を尖らせて、続けた。
「だって、ラフィア神や神族のみなさまは、人間のけんかに手を出さないんでしょ。おかあさんが言ってた」
「ああ……そういうことか」
ラメドが肩をすくめる。体が大きいからか、動きそのものも大きく見えた。
「確かに、ラフィア神族であれば、見守ることしかしない。人間同士の揉め事には手を出さないな。君が神兵に殺されたとしても、直接何かをしてくれることはない」
少女は唇を結んで、下を向いた。
「ラメドも神様なんでしょ。助けちゃだめだったんじゃない?」
「私は……ラフィア神族とは、少し『ずれている』からな。手出ししても、すぐに問題になることはない」
「ふうん?」
ラメドの言葉は小難しくて、少女にはよくわからなかった。
それでも――彼女の中には、今まで感じたことのない『もやもや』が生まれつつあった。
「あたしは、ラメドみたいな神様の方が好きだな。……何もしてくれない、ラフィアより」
もやもやが薄らぐ。体の奥底から、赤黒い熱がわきあがってくる。それは、怒り。彼女の知らない怒りだった。
少女は戸惑った。こんなこと、今までは考えることもなかったのに。
きゅっと両手を握りしめる。そこへ、再び手が差し伸べられた。少女は驚いて、その手を――ラメドを見上げる。
「ならば、私と共に来るか。……ともに、ラフィアに叛くか?」
優しかった声が、鋭くなった。穏やかな川が大雨で氾濫したかのような変わりようだ。
生ぬるい空気が二人を包む。少女は唇を震わせた。
「ラフィアに、そむく?」
男の言葉を繰り返す。うつむいて、しばらく呼吸の音だけを聞いた。暗い言葉を、生ぬるい息とともに吐き出す。
「むりだよ。ただの人間のあたしが、いちばんおっきな女神さまにさからうなんて」
声は返らない。不安になった少女が顔を上げると、男は顎をなでながら考え込んでいる様子だった。視線に気づくと、頭を少し動かして、少女を見る。
「君自身が人間でなければ……ラフィアに逆らえるだけの力があれば、逆らいたいと思うかね?」
思いもよらぬ問いに、少女は目を見開いた。今度は、彼女の方が考え込む番である。自分の膝をにらんで沈黙する時間は、さして長くなかった。一度、体の奥深くへ沈んだように思われた赤黒い熱が、再び上ってくる。
「……もんくは言いたい、かな。なんでお父さんとお母さんを助けてくれなかったんだ、って」
それでも、『逆らいたい』と言い切る勇気はなく。小さな拳を握った。
「それに、あたし、このままひとりぼっちになりたくない」
親もいない、大した知恵も回らない子供が一人で生きていけるほど、世界は甘くも温かくもない。幼いながらに、少女はそれを知っていた。生きて、ラフィアに文句を言うならば、相応の力が必要だ。
きゅっと眉を寄せた少女を、ラメドは静かに見つめた。少しして、口を開く。
「であれば、私が君を神にしよう」
「え?」
「神の力を授け、我ら『セルフィラ神族』の一柱として迎える。これで、何も問題はあるまい。神様は――私は、やすやすと死なないからな。君をひとりぼっちにすることもない」
淡々とした男の言葉に、少女は目を見開いた。
「あなた、ほんとうに神さまなの?」
「最初にそう名乗ったつもりだったが」
喜怒哀楽が感じられなかった男の顔に、初めて不満げな色が差す。心が浮き立つのを感じながら、少女も頬を膨らませた。
「しょうがないじゃん。いきなりそんなこと言われても、信じられないよ、ふつう?」
「ふむ。まあ、それもそうだな」
背伸びをした少女の言葉に、ラメドはあっさりとうなずく。それがなんだかおかしくて、少女は久しぶりに声を上げて笑った。
少女がひとしきり笑った後、ラメドは正面から彼女に向き合って、再び、手を差し出す。
「おいで。私とともに、行こう」
「――うん」
少女は再びラメドの手を取る。大きくてごつごつした手は、人間と同じように、温かかった。