教会での激戦から、一夜明けて。ステラはいつもより遅く目が覚めた。気配を消して身支度を整え、外に出る。すると、やたら元気な掛け声とともに体を伸ばしているブライスと遭遇した。
「あ、ステラ。おはよー!」
「おはよう、ブライス」
「ちょうどよかった。これから素振りしようと思ってたんだけどさ、一緒にやらない?」
「いいわね。ご一緒しましょう」
学友は、榛色の瞳をきらきらと輝かせる。ステラはにっと笑って、剣の鞘を軽く叩いた。
――昨日、セレスト神父が紹介してくれたのは、ロアンナ唯一の宿屋だった。民家にまぎれた小さな宿だが、部屋は清潔で食事も美味しい。部屋の窓から見える緑と町並みには、何とも言えぬ趣があった。騒音も少ないので、体を休めるには持って来いである。
そんな宿の近くで素振りをした武術科生たちは、清々しい気分で中へ戻った。学友たちと合流し、朝食をとり、また一休み。
ステラが男子部屋を訪ねたのは、その後のことである。
高いところまで昇った太陽の光が通路に降り注ぐ。この時機らしい陽光のぬくもりを背に感じながら、ステラは客室の扉を叩いた。返事と共に顔を出したのは、彼女たちの団長である。
「やあ、ステラ。レクシオくんに会いにきたのかい?」
「ご名答」
ステラは肩をすくめた。
「レク、起きてる?」
ジャックは、すぐに返答しなかった。代わりに悪戯っぽく笑って、ステラを部屋に招き入れる。当然ながら、部屋の構造や調度品は女子部屋と同じだ。
「おーっす、ステラ」
「ど、どうも」
寝台の上で胡坐をかいているトニーが、ひょいと手を挙げる。窓辺の椅子に腰かけて聖典をめくっているカーターは、恐縮したように頭を下げた。オスカーは、無言で小さく頭を下げる。そして、最後の一人は――オスカーの隣、寝台の上にいた。
「……ステラ?」
眠そうな目が戸口を見る。ステラは大股でそちらに歩いていくと、左手を腰に当て、右手で幼馴染のぼさぼさ頭をかき混ぜた。彼らしくない、呆けた声が上がる。
「今起きたの?」
「おー……信じられんくらい寝坊した……」
「いいんじゃない? 武術科合宿の感覚で起きられる方が怖いし」
合宿中の起床時間は、大抵日の出前である。
レクシオの髪の毛を雑になでつけながら、隣を見る。「どんな具合だった?」と尋ねると、オスカーは目線だけを二人に向けた。
「夜中に少し熱が上がった。今は平熱」
「やっぱり。様子見ててくれてありがとう」
「見張っていないと何をしでかすかわからないからな」
体術専攻の少年は、ふいと顔を逸らした。笑みをこぼしたステラとは対照的に、レクシオはわかりやすく眉を下げる。
「俺のこと、なんだと思ってんだ、オスカー?」
「死にたがり」
「ひどっ。相方を置いて死ぬ気はないんですけど」
「なら無理に動くのはやめろ。作戦行動にも差し障る」
容赦ないオスカーの言葉に、しかしステラは何度もうなずいた。自分のことは棚に上げている。何かが心に刺さったらしいトニーが、腹を抱えて笑っていた。
混沌とした男子部屋の扉を、誰かが叩く。ジャックとカーターが「はい」と返事をし、ジャックの方が扉を開けた。
「やあ、ナタリーくん。どうした?」
「ステラ、いる?」
「ああ。いるよ」
やり取りを聞いたステラは、入口に向かって手を振る。ナタリーは、遠慮がちに顔をのぞかせた。
「セレスト神父がいらっしゃったんだけど。なんか、話したいことがあるって」
友人の言葉に、ステラは目を瞬いた。後ろで聞いていたレクシオが、掛布を畳み始める。
「俺も行く」
彼が言うと、男子四人は信じられないものを見るような視線を向けた。レクシオは顔を引きつらせる。男子たちのやり取りに、ステラは肩をすくめた。神父が呼んでいるのは、『翼』であるに違いない。どのみち、レクシオが行かないという選択肢はなかった。
カール・セレスト神父は宿の外で待っていた。『翼』を見ると、恭しく挨拶をする。そして、二人を教会まで案内した。
まだ戦いの跡が残っている教会の中で、怪訝そうな二人に笑いかける。
「ご足労をおかけしました。町中では話せないことでして……」
「構いませんけど……何かあったんですか?」
ステラが尋ねると、神父は本題を切り出した。
「神録の内容がわかりました」
二人は、目を剥いた。顔を見合わせてから、恐る恐る神父を見る。
「……本当、ですか?」
レクシオが問うと、神父はうなずいた。黒衣の下から、赤紫色の宝石を取り出す。陽光に照らされてきらめき、表面の文字が浮き立った。ステラは思わず唾を飲みこむ。
「でも、どうやって突き止めたんですか?」
「実は……息子たちが解読していたようなのです」
「……へ?」
ステラとレクシオの、間抜けな声が揃った。対するセレスト神父は、背中を丸める。
「次男が掃除中に神録を見つけ、この文字の解読を試みたようなのです。途中からは、長男も手を貸したそうです。当時は次男にしか文字が見えておらず、詩を紙に書き写したものを二人で解読したのだと……」
二人ともが絶句していた。沈黙と少年少女の表情をどう取ったのか、セレスト神父はますます小さくなる。
「次男はラフェイリアス教への関心が薄く……ゆえに、神録の意味を深く考えずに手を出したものと思われます。しかし、神の宝に無断で手を出すなど、聖職者にあるまじき行い。本来ならば厳罰に処されてもおかしくありません」
「いえ、あの」
「二人には、私からきつく言っておきました。詩を書き写した紙もこちらで回収しております。ですので、どうか、罰はこの私にのみお与えください。なにとぞ……」
土下座しそうな勢いの神父を見て、二人は戸惑ってしまった。ステラが半歩前に出て、そっと神父に声をかける。
「あの、頭を上げてください。誰も処罰なんてしませんから。あたしたちに、そんな権限ないですし」
「いいえ、いいえ。『翼』に腹を切れと言われれば、我々は腹を切らねばなりません」
えっ、とステラはカエルのような声を上げてしまった。気まずい沈黙の後、どうにか声を絞り出す。
「言いませんよ、そんなこと。今回は助かった部分の方が大きいんです。もし、誰も解読しないまま神録が敵に奪われていたら、打つ手がなかったんですよ」
ステラが努めて冷静に語りかけると、セレスト神父はようやく頭を上げた。ほっと息を吐いたステラの隣に、レクシオが進み出る。何やら考え込んでいる様子だった彼は、神父を見てにやりと笑った。
「それに――神父さまの次男くん、只者じゃないかもしれませんよ?」
「それは、どういう……?」
セレスト神父がうめくように問う。レクシオは、得意げに人差し指を立てた。
「今までの神録は、『翼』や神さまにしか内容がわからなかったんです。普通の人々には、文章すら見えなかった。でも、次男くんには最初から見えていたんでしょう?」
「あ、確かに」
彼の言葉に、ステラとセレスト神父は揃って息をのんだ。神父の表情がたちまち険しくなる。それを見て、レクシオはひらりと手を振った。
「……ま、その神録の方が今までと違うだけの可能性もありますけどね。ラフェイリアス教に興味がない子に、変な期待をかけるのも悪いですし。でも、しばらくは注意しておくといいと思います。『金の翼』の勘です」
「……肝に銘じておきます。ありがとうございます」
神父は再び頭を下げる。今度のそれは、聖職者の『翼』に対する礼と言うより、一人の親としての礼のようであった。
顔を上げた神父に、ステラはおずおずと尋ねる。
「それで、その……神録にはなんて刻まれていたんですか?」
「おっと、そうでした」
目を見開いた神父は、「少々お待ちください」と言い置いて、奥へ引っ込む。戻ってきた彼の手には、数枚の紙があった。
「こちらです。息子たちが解読したものですので、正確ではないかもしれませんが」
いえ、と言ってステラは紙を受け取る。レクシオともどものぞきこんだ。
上側に原文、下側に訳文が書かれていた。几帳面な字である――長男のものだろう。
「なになに……?『ひとつの目で庭のすべてを監視することはできなかった。ゆえに、彼はもうひとつの目を生んだ。それは彼女の弟妹として、ともに庭を監視した』」
レクシオが、つたない文章を読み上げたとき。ステラは顔をしかめた。突然、耳鳴りがしたのだ。何事かと耳に手をやった瞬間、どこからか声が響く。
『――しかし、やがて世界の分身ですら、すべてを見ることができなくなった。彼らが思っていた以上に命が増えてしまったのだ。そこで世界は、もうひとつの分身をつくった。最初の分身の兄弟となった“彼女”は、最初の分身と協力して世界を見守り、時に直した』
頭の中に直接響く声。それが読み上げた内容に、ステラははっとした。思わずレクシオの方を振り返る。彼は、顔をしかめていたが、ややして神父に声をかけた。
「神父さま。何か、書くものありますか」
セレスト神父は驚きつつも、奥からペンを持ってきた。手元にある紙の裏側を使わせてもらって、レクシオはペンを走らせる。ステラは、唇を引き結んでその様子を見守った。黒いインクが刻んだ文字に、目をみはる。
レクシオが描き終えたところを見計らって、ステラは「あたしも、書いていい?」と声をかけた。怪訝そうなレクシオからペンを受け取って、書く。しげしげとながめていたレクシオは、それを見て、「まじか」と声を上げる。セレスト神父も、信じられない様子でその文字列を見つめた。
ステラたちは大急ぎで『調査団』と『研究部』を教会に集めた。事の次第を説明し、みんなにステラたちが書き留めた文章を見せる。
「これが……今回の神録の内容かい?」
「多分、そうだと思う」
目を丸くしているジャックに、ステラがうなずいてみせる。団長の後ろからそれをのぞきこんでいた面々が顔をしかめた。カーターなどは、見るからに青ざめている。
ステラは改めて、自分たちが書いたものをながめた。
――世界の『庭』は刻々と広がり、生命が増えていく。しかし、そのすべてに世界の目を届かせることはできない。
そこで世界は、おのれの分身をつくった。分身に庭の様子を観察し、おかしなところがあれば知らせるように命じた。
世界の分身は忠実にその命令を実行する。庭を見守り、生命の営みを見守った。庭に壊れそうなところを見つけたときは、こっそり直すこともした。
しかし、やがて世界の分身ですら、すべてを見ることができなくなった。彼らが思っていた以上に命が増えてしまったのだ。そこで世界は、もうひとつの分身をつくった。最初の分身の兄弟となった“彼女”は、最初の分身と協力して世界を見守り、時に直した――
「世界の、分身……。これって、ラフィア神のことかな?」
「ラフェイリアス教と関連付けるなら、そうなる。ラフィアと……おそらくは、セルフィラのことだ」
レクシオの言葉に、ステラは息をのんだ。最初は、まさか、と思ったが、すぐに思い直す。最初に作られた『世界の分身』がラフィア、『もうひとつの分身』がセルフィラ。――そして、彼女たち自身が生み出した分身体が、その他の神々。そう考えれば確かに自然ではある。兄弟、弟妹といった文言が、セレスト兄弟が解読した文章にも、ステラたちが聞いた文章にも含まれていたのであるし。
「世界の『庭』を見守るために作られた分身。それが、俺たちが信じている主神と、邪神と呼ばれる妹神、か」
「それを記録しておくためのもの……だから神録、ということでしょうか?」
オスカーとシンシアがうなる。シンシアの言葉は、核心をついているように思われた。
礼拝の間に、重苦しい沈黙が漂う。その中でねずみさながらに動き回っていたブライスが、ステラの前で背伸びをした。
「でもさ、これが『神のための道』とやらにどう関係してくるのかな?」
ブライスの疑問は、ディノで一度ナタリーが呈したものと同じだ。そしてここでも、答えを示せる者はいない。再び下りた沈黙を、しかしかすかな一言が破った。
「『祈りを辿れ。祈りこそが道である』」
レクシオの呟き。全員の視線が、彼へと集中する。見られた当人は、いつものようにおどけることなく、鋭い視線を紙に注いでいた。
「ひょっとして……『祈り』ってのはこのことか? 世界の分身が、人から祈りを捧げられて、神になるまでの過程。それを辿ることそのものが、『道』をつくるための儀式……?」
それを聞いて、誰もが息をのんだ。全身を震わせているカーターを、オスカーがさりげなく支える。
「だとしたら、私たちがこれを探ってる時点でセルフィラに加担しているってことにならない? 大丈夫なの?」
「知らん。何とも言えん。これ自体、あくまで俺の推測なんだし」
詰め寄ったナタリーに対して、レクシオは大仰に両手を挙げる。それを見て、ジャックが険しい顔でうなずいた。
「そうだね。ここで議論していてもしかたがない。一度帝都に戻って、他の神録の内容と併せて整理してみよう。エドワーズ神父にも、報告しておかなきゃならないし」
『クレメンツ怪奇現象調査団』団長の言葉に、反対する者はいなかった。方針が決まったところで、その団長がセレスト神父を見る。
「というわけで、僕たちは帝都に戻ることにします。神録の実物は……」
ジャックがそこで、『翼』に目配せした。ステラが首をかしげ、レクシオはうかがうように神父を見る。
「俺たちはどちらでも構いませんけど……」
「でしたら、しばらくこちらで預からせてください。この件について、ラフィーナにも報告を上げさせていただきますので」
報告の際、神録の実物があった方が説明しやすい、ということだろう。ステラとレクシオは納得して、うなずいた。
「本当に、お世話になりました」
「こちらこそ。……皆様に、金の恵みと銀の慈愛が降り注ぎますように」
挨拶を交わし、セレスト神父の穏やかな笑顔に見送られ、学生たちはロアンナ教会を去る。静かな道を歩きながら、ステラはなんとなく空を見上げた。点々と雲が浮く、冬空。
「ねえ、レク」
「ん?」
隣を歩く少年を呼ぶ。すぐに返った声が、ステラの心を優しくなでた。
「レクの質問に対するアインの答え……あれ、どういう意味だろうね?」
その優しさに身をゆだねつつ尋ねると、レクシオは「ふむ」と呟いた。両手に息を吹きかけながら、空を見る。
「美しい世界に、神様の務め、ね。セルフィラ神を呼び出す理由と、関係はありそうだけどな」
「だよね」
「セルフィラや旗下の神族たちは、『美しい世界』を目指しているのかね?」
「うーん……世界に極力干渉しないラフィアと逆の立ち位置って考えれば、ありえなくはないけど……そもそも、あのひとたちの言う『美しい世界』って何?」
「わからん。そこがわからんのが問題だ」
二人は思わず頭を抱える。かつてラフィアに大敗を喫した妹神とは、どのような神様なのか。そのあたりが見えてくれば、もう少しわかることもあるのだが、いかんせん記録がなさすぎる。
「……神録を読み解けば、何かわかるかなあ」
ステラが問うでもなく呟けば、レクシオは頭をかいた。
「どうだろうな。俺たちが『聴いた』のが神録の記述のすべてなら、あんまり期待しない方がよさそうだけど」
痛いところを突かれて、ステラはうめく。腹の中にちりちりと、何かが溜まってゆく感覚があった。たまらず、白い空に向かって拳を突き上げる。
「そもそも、神録ってなんなんだよ! 誰が、なんのために、あんなもの残したわけ!?」
「それは俺も知りたい」
レクシオがおどけて言う。ステラは答えるように深く息を吐いて。拳を下ろした。余分なものを取り払った頭と心の隙間に、ふと神録の一節が入り込んでくる。
「祈りこそが道である、か」
――セルフィラが通れるほどの『道』ならば。ラフィアも通ってこられるのではないか。
ステラは苦笑する。戯れのような思いつきを頭の隅に追いやって、前を向きなおした。
「まあいいや。謎解きは帝都でやろう。そのためにもさっさと帰ろう!」
「だな」
戦友にして王である彼と、いつものように言葉を交わし、ステラは弾むように歩調を速める。「武術科生ども、速すぎ!」という友人の叫びが、寒風に乗って追いかけてきた。